2007年 01月 21日
番外編 その一 ”囚人食” |
フランスからの帰国を余儀なくされたのは、ソーリューで伝染性の病に罹患したのが原因でした。帰国後、最終的には健康を取り戻し今日に至るのですが、その辺は後述するとして、当時の生活環境について少し書いておきたいと思います。
ソーリューのラ・コート・ドールは、一時、震災の時まで六甲アイランドに支店を開いていましたので、ご存知の方も多いと思います。また、日本人も含めて著名な料理人を数多く輩出していることでも有名ですね。
さて、ここにいたのは前述した通りとても短いので、語る資格がないかも知れませんが、この店の賄いがとても貧弱だったことは、どうしても語らずにはおれません。一日2度の食事がありましたが、大抵、こんな内容です。野菜の面取りしたくずを炒めたものがごく僅かとソーセージが一本のみ。パンは、田舎パンのお客さんに出せない端の切り落としが、黒いビニール袋に取っておかれています。そこに手を突っ込んで、中から少しでも柔らかそうなものを選んで食べました。この店の賄いは手が空いた順に名々食べますから、後の方になるとガチガチの固いパンしか残っていませんでした。
連日朝から夜中までほぼぶっ通しの勤務で、気力も体力も限界まで使う仕事です。当たり前ですが、デザート担当は最後のお客さんの注文を終えるまで残ります。いつも部屋に帰るのが夜中の12時を回っていました。腹ペコですから夜中に、パリの中華街で箱買いして持って来たインスタントラーメンを食べていました。これが毎晩です。もちろん野菜も肉もありません。同じ住み込みのフランス人の同僚と1つの鍋を分け合って食べたこともありました。
食料の買い溜めをする時間もなかったのです。店の冷蔵庫の中に保存していた豚の塊肉を勝手に少し切り取って服の中に隠し、夜中に密かに焼いて食べたことさえありました。
今思い出しても腹が減る、いや、腹が立つ、あの貧しい賄いは”18世紀の囚人食”と形容したくなります。
甘いことを言うつもりはないのですが、仕事が激務でも、超低賃金でも修業ですから仕方ありません。当時の多くの日本人料理人、いや、それ以前に渡仏した先達の苦労を思えば働けるだけましとも言えるでしょう。しかしやっぱり思うのです。レストランは人に喜びを、元気を与える仕事です。それを担う従業員の食事をおろそかにして、オーナーの頭上に星が輝いているというのはどう考えてもおかしいと思います。
後にこのオーナーは、レストラン評価の重圧に悩み(と一般には言われている)、猟銃で自死しました。このニュースを店のフランス語ラジオで聞いた時には、弔意と共に複雑な気持ちを覚えました。もう少し、自身にも優しくあったなら、星ばかりを求めることはなかったでしょう。
ソーリューのラ・コート・ドールは、一時、震災の時まで六甲アイランドに支店を開いていましたので、ご存知の方も多いと思います。また、日本人も含めて著名な料理人を数多く輩出していることでも有名ですね。
さて、ここにいたのは前述した通りとても短いので、語る資格がないかも知れませんが、この店の賄いがとても貧弱だったことは、どうしても語らずにはおれません。一日2度の食事がありましたが、大抵、こんな内容です。野菜の面取りしたくずを炒めたものがごく僅かとソーセージが一本のみ。パンは、田舎パンのお客さんに出せない端の切り落としが、黒いビニール袋に取っておかれています。そこに手を突っ込んで、中から少しでも柔らかそうなものを選んで食べました。この店の賄いは手が空いた順に名々食べますから、後の方になるとガチガチの固いパンしか残っていませんでした。
連日朝から夜中までほぼぶっ通しの勤務で、気力も体力も限界まで使う仕事です。当たり前ですが、デザート担当は最後のお客さんの注文を終えるまで残ります。いつも部屋に帰るのが夜中の12時を回っていました。腹ペコですから夜中に、パリの中華街で箱買いして持って来たインスタントラーメンを食べていました。これが毎晩です。もちろん野菜も肉もありません。同じ住み込みのフランス人の同僚と1つの鍋を分け合って食べたこともありました。
食料の買い溜めをする時間もなかったのです。店の冷蔵庫の中に保存していた豚の塊肉を勝手に少し切り取って服の中に隠し、夜中に密かに焼いて食べたことさえありました。
今思い出しても腹が減る、いや、腹が立つ、あの貧しい賄いは”18世紀の囚人食”と形容したくなります。
甘いことを言うつもりはないのですが、仕事が激務でも、超低賃金でも修業ですから仕方ありません。当時の多くの日本人料理人、いや、それ以前に渡仏した先達の苦労を思えば働けるだけましとも言えるでしょう。しかしやっぱり思うのです。レストランは人に喜びを、元気を与える仕事です。それを担う従業員の食事をおろそかにして、オーナーの頭上に星が輝いているというのはどう考えてもおかしいと思います。
後にこのオーナーは、レストラン評価の重圧に悩み(と一般には言われている)、猟銃で自死しました。このニュースを店のフランス語ラジオで聞いた時には、弔意と共に複雑な気持ちを覚えました。もう少し、自身にも優しくあったなら、星ばかりを求めることはなかったでしょう。
by comme-tu-veux
| 2007-01-21 15:26
| フランス思い出話