2007年 01月 19日
フランスでの最後の店 |
コルマールを去って次に向かったのが、パリからおよそ250km離れたブルゴーニュ地方のSaulieuソーリューという町です。ここの当時2つ星(現在3つ星)だったレストランLa cote d'or ラ・コート・ドールに先輩の紹介で入ることが出来ました。
着いた日かその翌日の昼に、パリで親しくさせて貰っていた日本人の先輩と約束通りに落ち合って、これから中で働くその店で食事をしました。働き始めてしまうと、客として食べる機会がなかなかないのです。何処かに記録しているとは思うのですが、ここでの食事は残念ながら憶えていません。とても華やかで明るい客間だったこと、それと、食事の後に先輩と近くを散歩したことだけ記憶にあります。
フランスに初めて着いた頃にパリ市内の2つ星の店に食事に行った時と同様、慣れない場で緊張し過ぎると、もう上の空になってしまうのです。フランスでの生活はすでに2年を過ぎていて暮らしには慣れていても、高級店の非日常的な雰囲気の中で食べる経験が、余りにも乏しかったせいでしょうね。(今でもその経験は乏しいですが・・・。)
新人は誰でもそうでしたが、デザート係に配属されました。
主にアイスクリームやシャーベット、コーヒーの時にお出しするプティ・フール(小菓子)を作ります。温かい料理を作る部署とは少し離れていて、そちらの様子を見ることは出来ません。もっとも、仮に見れたとしてもそうする余裕など皆無でしたが・・・。
毎日、昼と夜のサーヴィス毎に、何種類ものアイスクリームとシャーベットをマシンにかけて出来立ての状態にします。アイスクリームなどはすぐに慣れて出来るようになりましたが、問題は折りパイ生地を使った焼き菓子などです。一瞬の差で失敗する、とても難しい作業です。
何度やっても失敗の連続でした。
なにせそれまでまともにデザートの担当をしたことがなかったし、デザートなんてそう難しくないやと、呑気に構えていましたから無理もありません。
2つ星でもそれなりにやれるだろうと云う思い上がった自信はすぐに吹飛びました。なんにも出来ない、迷惑ばかりかけている、自責の念で一杯です。毎日職場に向かうのに勇気を要しました。作業の精度はこれまでとは全く別物です。完璧でないいけません。強烈な圧力がかかります。
その部署ではサラダも作っていましたが、作り置きではなく、オーダー毎にその場で作るドレッシングがまた難しい。物凄い形相でフランス人の同僚が怒鳴ります。「こんなのドレッシングじゃない!」大声張り上げ、私の作ったドレッシングをボールごと投げつけます。
今までと違う、ここは別世界だ、そう思いました。意識のレヴェルが違うんです。見てるところがまるで違っていました。ほとんどのフランス人料理人は地方の名店出身で、サラブレッドです。薄給も時間外労働も苦にすることなく猛烈な上昇志向でやって来ています。誰もが無口で眼は血走り、ストレスが溜まりに溜まって一触即発、そんな空気が満ちていました。
がむしゃらにやってひと月が過ぎ、同じ部署に一人いた日本人の先輩の親切な指導で少しはこなせるようになって来た頃、不覚にも体調を崩しました。最初は風邪だろうと思っていましたが、一向に治る気配はありません。高熱が続き、ついに寝込んでしまいました。
これはおかしいと思い、町なかの医院へ行きました。医薬分業は勿論、血液検査も、注射も、医院とは別のところです。歩くのにも困難でしたがポツリポツリ歩いてあちこち巡ります。何度か通って、もらった診断がしょう紅熱というものでした。scarlatine(スキャルラティーヌ)、 辞書で見つけてもそれがどんな病なのか全く知りません。朦朧とした頭のまま、オーナーに診断書を見せました。彼はそれを読むなり、「すぐに帰りなさい。」とだけ言いました。伝染性の病気でした。
着いた日かその翌日の昼に、パリで親しくさせて貰っていた日本人の先輩と約束通りに落ち合って、これから中で働くその店で食事をしました。働き始めてしまうと、客として食べる機会がなかなかないのです。何処かに記録しているとは思うのですが、ここでの食事は残念ながら憶えていません。とても華やかで明るい客間だったこと、それと、食事の後に先輩と近くを散歩したことだけ記憶にあります。
フランスに初めて着いた頃にパリ市内の2つ星の店に食事に行った時と同様、慣れない場で緊張し過ぎると、もう上の空になってしまうのです。フランスでの生活はすでに2年を過ぎていて暮らしには慣れていても、高級店の非日常的な雰囲気の中で食べる経験が、余りにも乏しかったせいでしょうね。(今でもその経験は乏しいですが・・・。)
新人は誰でもそうでしたが、デザート係に配属されました。
主にアイスクリームやシャーベット、コーヒーの時にお出しするプティ・フール(小菓子)を作ります。温かい料理を作る部署とは少し離れていて、そちらの様子を見ることは出来ません。もっとも、仮に見れたとしてもそうする余裕など皆無でしたが・・・。
毎日、昼と夜のサーヴィス毎に、何種類ものアイスクリームとシャーベットをマシンにかけて出来立ての状態にします。アイスクリームなどはすぐに慣れて出来るようになりましたが、問題は折りパイ生地を使った焼き菓子などです。一瞬の差で失敗する、とても難しい作業です。
何度やっても失敗の連続でした。
なにせそれまでまともにデザートの担当をしたことがなかったし、デザートなんてそう難しくないやと、呑気に構えていましたから無理もありません。
2つ星でもそれなりにやれるだろうと云う思い上がった自信はすぐに吹飛びました。なんにも出来ない、迷惑ばかりかけている、自責の念で一杯です。毎日職場に向かうのに勇気を要しました。作業の精度はこれまでとは全く別物です。完璧でないいけません。強烈な圧力がかかります。
その部署ではサラダも作っていましたが、作り置きではなく、オーダー毎にその場で作るドレッシングがまた難しい。物凄い形相でフランス人の同僚が怒鳴ります。「こんなのドレッシングじゃない!」大声張り上げ、私の作ったドレッシングをボールごと投げつけます。
今までと違う、ここは別世界だ、そう思いました。意識のレヴェルが違うんです。見てるところがまるで違っていました。ほとんどのフランス人料理人は地方の名店出身で、サラブレッドです。薄給も時間外労働も苦にすることなく猛烈な上昇志向でやって来ています。誰もが無口で眼は血走り、ストレスが溜まりに溜まって一触即発、そんな空気が満ちていました。
がむしゃらにやってひと月が過ぎ、同じ部署に一人いた日本人の先輩の親切な指導で少しはこなせるようになって来た頃、不覚にも体調を崩しました。最初は風邪だろうと思っていましたが、一向に治る気配はありません。高熱が続き、ついに寝込んでしまいました。
これはおかしいと思い、町なかの医院へ行きました。医薬分業は勿論、血液検査も、注射も、医院とは別のところです。歩くのにも困難でしたがポツリポツリ歩いてあちこち巡ります。何度か通って、もらった診断がしょう紅熱というものでした。scarlatine(スキャルラティーヌ)、 辞書で見つけてもそれがどんな病なのか全く知りません。朦朧とした頭のまま、オーナーに診断書を見せました。彼はそれを読むなり、「すぐに帰りなさい。」とだけ言いました。伝染性の病気でした。
by comme-tu-veux
| 2007-01-19 17:55
| フランス思い出話