2010年 01月 20日
ネタがないので・・ |
そう、今日はちょっと店舗のトラブルがあって(全くご心配はありません、クリアしました。)、料理の写真はないんです。ですから、今夜来てくれたお客さんとの会話の続きで、ちっとも面白くはないのですが、私の(料理人としての)経歴でも書いてみましょうか。
18歳で高校を卒業してすぐに、確か、卒業式の翌日に上京しました。
そしてその翌日には、新宿にあった洋食屋で働き始めました。名前に同じ字があるのでよく覚えている”靖国通り”に面した雑居ビルの3階にその店はありました。そう、当時の典型的な洋食屋です。海老フライやハンバーグ、マカロニグラタン、そう、ピラフなんてのもありました。
関西弁が今のように認知(許容)されてなかった時代でしたから、まずは言葉の壁(?)でつまずきます。誰も会話なんてしてくれませんので単に受け答えだけなのですが、やっぱり出るのですね。関西調のイントネーションが。揶揄されても直しませんでした。その時は関西人のアイデンティティーみたいに思っていたのでしょうね。
料理人の世界では店に就職(入社)するのとは別に、人に師事する就業の仕方があります。私の場合は後者でした。親方(シェフ、チーフ、大将、もっと変なのは”ムッシュ”、などど色々な呼称がありますが、そのチームでは親方と決まっていました。これはこれで、古風でよかったと思っています。)に身を預ける訳です。
その親方の元で一年が経ち、関西弁も徐々に抜けてようやく下働きに慣れた頃に店は潰れました。原因は分かりません。多分説明はあったのでしょうが、全く記憶にないのです。
とにかく、この大都会(そう言う心境です、失職しそうなのですから余計です。)でこれからどうなるんだろうと不安でいっぱいでした。
幸い、店が潰れてからほどなくして、次の店にチーム(親方、二番、そして私の3人)で移ることになりました。中堅の洋菓子チェーンがレストランも併設している店で、前と同じ新宿区ですがその辺境にありました。そして、最初の店と同じ仕事内容でした。(そりゃそうです。同じ親方ですし、しばらくの間、下っ端は私だけでしたから。)
少し横道にそれますが・・東京での生活も1年を超えてくると慣れてきます。その頃には一人で下宿のような部屋を借りていました。部屋にはガスの元栓まではありましたが、ガス器具はなくて、朝はおもちゃのような電熱ヒーターでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを飲んで出勤しました。そして夜、仕事帰りの銭湯に間に合わない時は、真冬でも小さな流しで頭や体を洗っていました。洗濯もバケツを使ってその流しで済ませました。
今ではちょっと悲壮に聞こえるかもしれませんが、当時、そういう生活が結構好きでした。周りの若い人たちにもそう云うのがゴロゴロいましたし、むしろ、見習いの仲間内では競い合っていました。四畳半一間より三畳一間の方が凄いって。(分からない人には分からないですが・・。)
「木の窓枠から隙間風が入って寒くて、寒くて・・暖房器具もないんですよぉ。」なんて漏らしたら、大阪出身の店長から「うちにいらない炬燵があるから上げるよ。」と優しいオファー。
有り難く店長のご自宅に出向き、炬燵と炬燵布団を抱えて山手線に乗って帰ったこともあります。(実は電気ストーブを持っていたのですが、夜、眠っている内にそれで布団を焦がしたことがあったのです。就寝時の暖房に電気ストーブは危険です!!。)
そう、東京ではそんな風に見習い時代を楽しみました。
意図してちょっとしんどいレヴェルに身を置く方が、人生を味わえるということを覚えた時代です。
こうやって耐貧生活を続けながら渡仏する費用を貯めました。月給8万円で始まった2年間の下積みで100万円貯めました。貯めた金額じゃなくて、その気持ちこそがフランスへの道を可能にしたのだと思っています。「洋食屋じゃ終われない、どうやってでもフランスへ行くんだ。」と、ずっと思い続けていましたから。
続きはまた・・・。
18歳で高校を卒業してすぐに、確か、卒業式の翌日に上京しました。
そしてその翌日には、新宿にあった洋食屋で働き始めました。名前に同じ字があるのでよく覚えている”靖国通り”に面した雑居ビルの3階にその店はありました。そう、当時の典型的な洋食屋です。海老フライやハンバーグ、マカロニグラタン、そう、ピラフなんてのもありました。
関西弁が今のように認知(許容)されてなかった時代でしたから、まずは言葉の壁(?)でつまずきます。誰も会話なんてしてくれませんので単に受け答えだけなのですが、やっぱり出るのですね。関西調のイントネーションが。揶揄されても直しませんでした。その時は関西人のアイデンティティーみたいに思っていたのでしょうね。
料理人の世界では店に就職(入社)するのとは別に、人に師事する就業の仕方があります。私の場合は後者でした。親方(シェフ、チーフ、大将、もっと変なのは”ムッシュ”、などど色々な呼称がありますが、そのチームでは親方と決まっていました。これはこれで、古風でよかったと思っています。)に身を預ける訳です。
その親方の元で一年が経ち、関西弁も徐々に抜けてようやく下働きに慣れた頃に店は潰れました。原因は分かりません。多分説明はあったのでしょうが、全く記憶にないのです。
とにかく、この大都会(そう言う心境です、失職しそうなのですから余計です。)でこれからどうなるんだろうと不安でいっぱいでした。
幸い、店が潰れてからほどなくして、次の店にチーム(親方、二番、そして私の3人)で移ることになりました。中堅の洋菓子チェーンがレストランも併設している店で、前と同じ新宿区ですがその辺境にありました。そして、最初の店と同じ仕事内容でした。(そりゃそうです。同じ親方ですし、しばらくの間、下っ端は私だけでしたから。)
少し横道にそれますが・・東京での生活も1年を超えてくると慣れてきます。その頃には一人で下宿のような部屋を借りていました。部屋にはガスの元栓まではありましたが、ガス器具はなくて、朝はおもちゃのような電熱ヒーターでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを飲んで出勤しました。そして夜、仕事帰りの銭湯に間に合わない時は、真冬でも小さな流しで頭や体を洗っていました。洗濯もバケツを使ってその流しで済ませました。
今ではちょっと悲壮に聞こえるかもしれませんが、当時、そういう生活が結構好きでした。周りの若い人たちにもそう云うのがゴロゴロいましたし、むしろ、見習いの仲間内では競い合っていました。四畳半一間より三畳一間の方が凄いって。(分からない人には分からないですが・・。)
「木の窓枠から隙間風が入って寒くて、寒くて・・暖房器具もないんですよぉ。」なんて漏らしたら、大阪出身の店長から「うちにいらない炬燵があるから上げるよ。」と優しいオファー。
有り難く店長のご自宅に出向き、炬燵と炬燵布団を抱えて山手線に乗って帰ったこともあります。(実は電気ストーブを持っていたのですが、夜、眠っている内にそれで布団を焦がしたことがあったのです。就寝時の暖房に電気ストーブは危険です!!。)
そう、東京ではそんな風に見習い時代を楽しみました。
意図してちょっとしんどいレヴェルに身を置く方が、人生を味わえるということを覚えた時代です。
こうやって耐貧生活を続けながら渡仏する費用を貯めました。月給8万円で始まった2年間の下積みで100万円貯めました。貯めた金額じゃなくて、その気持ちこそがフランスへの道を可能にしたのだと思っています。「洋食屋じゃ終われない、どうやってでもフランスへ行くんだ。」と、ずっと思い続けていましたから。
続きはまた・・・。
by comme-tu-veux
| 2010-01-20 22:47
| 日記