2009年 08月 19日
レストラン(広義で食堂)の楽しみ方 |
また新たに、”レストランの楽しみ方”と言うテーマで書いてみたいと思います。
普段ついつい出てしまう批判的な物言いは出来るだけ止めて、”こうしたら楽しいのに”と思うことを思いつくままに述べてみます。(多少脱線するかも知れませんが・・・。)
先ず一番に思うのは、食事の流れを自らアレンジすることだと思います。安易に人任せにするのではなく(圧倒的に男性のお客さんに多いです)、何をどのように食すを、自分で決めましょう。(すでにお客さんと高次でコミュニケィションが成立している場合は別です。もう判っていますから、どうして欲しいのかが。)
その場合、料理(食事)をコーディネイトするために、ある程度の知識が求められますが、ちっとも難しいことはありません。例えば、洋食屋さんで色々と注文するにしても、メインのハンバーグやステーキを食べた後にスープや前菜系の冷たい料理などは美味しくないでしょう。(洋食屋さんに限らず、他のジャンルでも同じですが。)
順に、軽いものから重いものへ、また、同系の物は出来るだけ重複しないで食した方が、(通常の)味覚上、美味しく楽しめる筈です。居酒屋さんで、 散々、焼き魚や肉類、揚げ物などを食べてから刺身は注文しないでしょう。同じことです。
よくお越し下さるお客さんのなかには、お昼は特注のスパゲッティをガッツリお召し上がりになる方、また、ご予約して下さって軽い前菜を3人でシェアした後にドカンとパエリャのお客さん、週末の午後、カヴァと料理を実に楽しそうに味わって下さるご夫婦、夜の仕事帰りにリクエストの軽い料理とワインをゆっくり楽しまれる方と、皆さんそれぞれ独自のスタイルをお持ちになられています。このように、こう食べたい、こう楽しみたいという意志を感じることほど、オーダーを受ける側にとって嬉しいことはありません。(服飾デザイナーにとって、プレタポルテよりオートクチュールの方が、きっとやりがいがあるに違いないように。)
日本の平均的な家庭の食卓は、あまり流れを考えていないせいでしょうか、このような食事観(食法)を学ぶ機会が少ないように思えます。テーブルに様々な料理が所狭しと広げられ、好きなものから好きなように抓んで食すスタイルが 随分昔から市民権を得ています。飽食と言う言葉が死語になってしまうほど節度がなくなったのでしょうか。(多分誰も意識しなかったからです。どう食すべきかを。)
幸か不幸か判りませんが、私が子供の頃は裕福でなかったせいか、質素で簡潔な食事でした。あれもこれも食べるのが豊さであるという思想で毒されてない食卓は、簡潔であるが故に、食すことの本質が宿っていたように思えます。美味しさとは、どれだけ美味なものかより、どれだけ美味しく食べるか(の技法)に依っているように思えるのです。美味なことは大事ですが、そこにしか焦点jを当てられないのは美食とは言えないでしょう。高級レストランで何を食べた、幾らのワインを飲んだ、どれだけ支払った、しか話せない人より、家庭の食卓や町の居酒屋さんで、何でもない冷奴をきちんと美味しそうに大事に食べる人の方が真に美食家だと思います。
これまでフランスやその周辺の食文化に関わるようになって、簡潔の美学や本質を見通す視座が、ヨーロッパのみならず、他の多くの食文化にも普遍的なものであるということを知るようになりました。物質的豊かさは、本当の意味での味わいをむしろ鈍磨させると思うのです。(食文化に限らず底通していることだと考えます。)
一皿の中に表現される文化性、真っ当な食事の体をなしている(一皿もしくは2~3皿で構成される)食事、会食者との会話を楽しみつつも時折皿の中にも意識を向け、料理法や、さっき食べたものとの関連性、料理の展開、全体のまとまりや物語性をも味わうことは、単に食物を摂取する行為をはるかに超えて、レストランを楽しむ醍醐味だと考えるのです。
ちょっとややこしい文章になってしまいましたが、折角書いたのでこのままアップします。
今夜は仕事が終わってから馴染みの居酒屋さんで烏賊ゲソのてんぷらがあまりに美味しくて続けて3人前も食べてしまった・・・。偏食もイカンなぁ・・・。
普段ついつい出てしまう批判的な物言いは出来るだけ止めて、”こうしたら楽しいのに”と思うことを思いつくままに述べてみます。(多少脱線するかも知れませんが・・・。)
先ず一番に思うのは、食事の流れを自らアレンジすることだと思います。安易に人任せにするのではなく(圧倒的に男性のお客さんに多いです)、何をどのように食すを、自分で決めましょう。(すでにお客さんと高次でコミュニケィションが成立している場合は別です。もう判っていますから、どうして欲しいのかが。)
その場合、料理(食事)をコーディネイトするために、ある程度の知識が求められますが、ちっとも難しいことはありません。例えば、洋食屋さんで色々と注文するにしても、メインのハンバーグやステーキを食べた後にスープや前菜系の冷たい料理などは美味しくないでしょう。(洋食屋さんに限らず、他のジャンルでも同じですが。)
順に、軽いものから重いものへ、また、同系の物は出来るだけ重複しないで食した方が、(通常の)味覚上、美味しく楽しめる筈です。居酒屋さんで、 散々、焼き魚や肉類、揚げ物などを食べてから刺身は注文しないでしょう。同じことです。
よくお越し下さるお客さんのなかには、お昼は特注のスパゲッティをガッツリお召し上がりになる方、また、ご予約して下さって軽い前菜を3人でシェアした後にドカンとパエリャのお客さん、週末の午後、カヴァと料理を実に楽しそうに味わって下さるご夫婦、夜の仕事帰りにリクエストの軽い料理とワインをゆっくり楽しまれる方と、皆さんそれぞれ独自のスタイルをお持ちになられています。このように、こう食べたい、こう楽しみたいという意志を感じることほど、オーダーを受ける側にとって嬉しいことはありません。(服飾デザイナーにとって、プレタポルテよりオートクチュールの方が、きっとやりがいがあるに違いないように。)
日本の平均的な家庭の食卓は、あまり流れを考えていないせいでしょうか、このような食事観(食法)を学ぶ機会が少ないように思えます。テーブルに様々な料理が所狭しと広げられ、好きなものから好きなように抓んで食すスタイルが 随分昔から市民権を得ています。飽食と言う言葉が死語になってしまうほど節度がなくなったのでしょうか。(多分誰も意識しなかったからです。どう食すべきかを。)
幸か不幸か判りませんが、私が子供の頃は裕福でなかったせいか、質素で簡潔な食事でした。あれもこれも食べるのが豊さであるという思想で毒されてない食卓は、簡潔であるが故に、食すことの本質が宿っていたように思えます。美味しさとは、どれだけ美味なものかより、どれだけ美味しく食べるか(の技法)に依っているように思えるのです。美味なことは大事ですが、そこにしか焦点jを当てられないのは美食とは言えないでしょう。高級レストランで何を食べた、幾らのワインを飲んだ、どれだけ支払った、しか話せない人より、家庭の食卓や町の居酒屋さんで、何でもない冷奴をきちんと美味しそうに大事に食べる人の方が真に美食家だと思います。
これまでフランスやその周辺の食文化に関わるようになって、簡潔の美学や本質を見通す視座が、ヨーロッパのみならず、他の多くの食文化にも普遍的なものであるということを知るようになりました。物質的豊かさは、本当の意味での味わいをむしろ鈍磨させると思うのです。(食文化に限らず底通していることだと考えます。)
一皿の中に表現される文化性、真っ当な食事の体をなしている(一皿もしくは2~3皿で構成される)食事、会食者との会話を楽しみつつも時折皿の中にも意識を向け、料理法や、さっき食べたものとの関連性、料理の展開、全体のまとまりや物語性をも味わうことは、単に食物を摂取する行為をはるかに超えて、レストランを楽しむ醍醐味だと考えるのです。
ちょっとややこしい文章になってしまいましたが、折角書いたのでこのままアップします。
今夜は仕事が終わってから馴染みの居酒屋さんで烏賊ゲソのてんぷらがあまりに美味しくて続けて3人前も食べてしまった・・・。偏食もイカンなぁ・・・。
by comme-tu-veux
| 2009-08-19 03:54
| 楽しみ方